懶眠井蛙

空貝に入っていた

利己で成り立つ優しさ

優しさは、ある一場面の観測を以てしか存在し得ないという話。

そもそも優しさとは、為す側と為される側のどちらが定義するのだろうか。
誰かの為に行動したから優しいのか、はたまた行動されて嬉しかったから優しいのか。
貴方が感じた優しい行動は、誰かにとって冷酷な行動足り得ないだろうか。
俯瞰した時、我々の行動は善悪を併せ孕み、純然たる優しさは存在し得ないだろう。

優しい人間とは一体なんだろうか。
彼の為す事が、ある人にとって都合が良い場合が多いだけで、ある人の指す「優しい人間」は私のそれではない。
優しい人間とはきっと、他者と一切関わらない、世界に痕跡を残さない人間だろう。

優しさは何によって発火するのだろうか。
その人の為を思って行動した時、それは思いやりにより発生したものではなく、結果的に得られるその人からの評価を目的として起こったものではないのか。
感謝をされた場合はその評価こそが報酬になり、感謝をされなかった場合も哀れみと優越感による、ある種の施しをした自分への評価が報酬になる。
そもそも、自身の脳を捏ね繰り回して他者を慮った所で、それは畢竟独善的な行為に帰結する。
純粋な利他により成立する優しさは存在し得るのだろうか。

優しいは状態ではない。
或る場面の、刹那的な行動への評価の一つにしかなり得ない。
いつか、我々が優しさの概念を持たない頃は高貴なものだった、今は陳腐に成り腐った優しさを憐れむ。